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 風間浦村で行われる祭りは以前、大間の祭り、蛇浦の祭り「折戸神社例祭」、易国間の祭り「大石神社例祭」 、桑畑の「桑畑八幡宮例祭」、下風呂の「若宮稲荷神社例祭」と、大間方向からどんどん南下してくる形で開催されていた。しかし近年は、各地区の事情で祭りの日が移動になり、昔ながらの日程で行われる秋の例祭は下風呂だけになってしまったという。 下風呂地区でも、事情により一度だけ日にちをずらしたことがあったらしいが、その年に災いが起こってしまった。そのことから、それ以降は10月10日、11日という日程は変えずに開催することにしている。

 なお、風間浦村で行われる4つの例祭は、平成12年に青森県の無形民俗文化財に指定されている。

 そんな下風呂温泉に伝統として伝わる祭りが今年も行われると聞いて、平日ではあるが自分の仕事が終了後に2時間半かけて下風呂へ移動し、若宮神社稲荷例祭のクライマックス部分を取材してきたのでこのページを借りて紹介したい。

<若宮神社稲荷例祭の歴史>

稲荷神社の勧請(かんじょう)は、今から350年以上昔の明暦3年(1657年)、下風呂に住む坂本佐五兵衛という人が勧請したと伝わっている。例祭日は、10日、11日である。勧請当時の祭典は、神社に氏子中が参集して神事を行い、お祝いするという習慣が長く続いていた。

その後、寛政6年(1794年)に神輿が使われるようになり、江戸末期に神楽会が組織されてから門打ちが行われるようになったと伝えられている。

山車の運行は明治中期とされている。また、子ども神輿(樽神輿)は、昭和34年からで、学校で参加して子供たちは祭りの着物に着飾ってたすき掛けで踊り、にぎわっている。

下風呂の船山「若宮丸」がいつ頃から運行されるようになったのか定かではないが、古老たちの話を総合すると、明治中期でないかと聞き伝えられている。現在使われている若宮丸は3代目で、平成に入ってから新しく作った山車である。

<風間浦村史 555、581ページより転載>

 <2日目午後19時〜20時の温泉街にて>

旧長谷旅館前にて出番を待つ若宮丸。下風呂の人たちは山車のことを「ヤマ」と呼んでいる。ヤマが動き出すのは「狂い獅子」が終わってかららしい。

独特のリズムに合わせて踊る「狂い獅子」。かなり激しく動き回り、時には旅館の中まで入ってくる。獅子に噛まれると幸せになれるということで、一緒に行ったメンバーと一緒にしっかり噛まれてきた。これで幸せになれるかも・・・。

こんなに下風呂に若者がいたのか、と思えるくらいたくさんの人たちが来ていた。 みんな笑顔で祭りを楽しんでいる。やはり祭りはこうでなくっちゃね。この独特な太鼓のリズムがまたいいんです。体がノリノリになってきます。

いつもの商店以外に出店も出て、祭りを盛り上げている。

<20時〜21時の温泉街にて>

狂い獅子について歩いていくと、大湯前まで進んだ。神輿が大湯浴舎の横で待機してその時を待っているその時とは、大湯浴舎の裏にそびえる若宮稲荷神社までの石段の道のりを一気に神輿を担いで駆け上がるイベントである。

同時間帯に子どもたちによる祭囃子も披露されていたらしい。同じ時間に二つのイベントが行われるため、自分は神輿のほうを取材した。

大湯浴舎から神社まで続く石段の参道に飾られた提灯が美しく、とても絵になる風景だ。 旅館の入り口や民家の玄関先には提灯が灯され、祭りの雰囲気をより盛り上げている。

白装束の「白丁」と呼ばれる担ぎ手に支えられた神輿が一気に石段を駆け上がり、神社の中に奉納された。迫力のあるイベントに圧倒され、この祭りが全く無名なのがとても不思議に思えた。参加している下風呂の人たちの誰に聞いても、観光客のために日程をずらすということはしない、と答えてくれた。客に訪れてもらうための祭りなのではなく、下風呂に住む人、住んでいた人、かかわりのある人が、この祭りのために仕事を休み、集い、再会を喜び合うことができる地域の大切な祭りなのだと教えてくれた。なるほど、だから10日、11日という日程をずらさずに伝統を守ってきたのだと改めて感じた。

メインストリートを練り歩いていたヤマこと「若宮丸」は、最後に細い大湯通りを巧みに回り込み、大湯の前まで引っ張られていった。クライマックスは力強く、声高々に盛り上がっていった。

その夜、ニュー下風呂さんやまるほん旅館、さつき荘など、おなじみの旅館からたくさんのおもてなしをいただいた。祭り、お湯、そして人情。すべてそろった素敵な下風呂温泉の別の一面を見られたような気がする。本当に楽しかった。個人的には大満足の例祭だった。来年もまた時間を作って訪れたいと心から思った。

by T-K