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昭和初期の新湯共同浴場です。だいたい今の新湯共同浴場と同じような形になっています。現在の若返りの坂を上っていった場所のどん詰まりの位置、つまり今ある位置と同じ場所に建っていたのですね。すぐ右側に源泉湧出井戸があるわけですから、やはり源泉をうまく生かすにはこの場所が最適だったということになります。

別角度から見た新湯共同浴場。裏にある森は今も昔も変わりませんね。現在の新湯は源泉の湧出量が減り、湯温も下がってきていると聞きます。100m以上も離れた新しい共同浴場の場所まで引き湯となると、新湯の鮮度が落ちてしまうかもしれませんね。

写真は 「東京と青森」第595号 東京青森県人会 2017年11月発行より

こちらの写真は大湯共同浴場です。昔の大湯は2階建てでした。写真が白黒なのでよくわからないと思いますが、エメラルドグリーンです。大正ロマンを感じさせる洋風チックな建築物で、2階は地区住民の集会所的な役割を果たしていたそうです。

源泉井戸から薬師如来像が出てきたという伝説をもつ「自由寺」と、温泉街を見下ろすように佇む村の守り神「若宮稲荷神社」と、そのお湯を地域住民で共同利用している「大湯共同浴場」が三角形で囲まれた大湯ゾーンは今も健在です。大湯 が長谷旅館の前に移るとなれば、開湯以来初めてこの三角形のゾーンが崩れることになるわけですね。

by T-K

資料提供協力 古川たらこさん
@shimofuroカフェ

外部記事 「下風呂温泉を取り巻く歴史空間 中園 裕 氏著」

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 大間線の遺構と並び、下風呂温泉には大切な建物がある。何を隠そう温泉街の象徴である大湯と新湯の共同浴場だ。湯の泉質が異なるだけでなく建物の古さが情緒を醸し出し、観光客にも評判が良い。
 新湯は何度か建て替えられているが、建物の基本的な形を崩すことなく、良き伝統を継承している。これに対し、現在一階建ての大湯は、かつては二階建てだった。二階は祭りのお囃子を練習するなど、集落の人々の活動拠点になっていた。
 子どもの入学式など行事の記念日には大湯や新湯の建物の前で撮影することが多かった。浴場前の広場では盆踊りも開催された。共同浴場は温泉街を象徴する大事な存在だった。温泉旅館でご主人や女将さんたちに話を聞けば、思い出話がたくさん出てくる。
 現在、老朽化した共同浴場の改築や移転をめぐり、地元で話し合いが進められている。建物の耐震強化は不可欠だが、古い建築物がもつ風情や情緒の大切さも見直されてきている。下風呂で実際に生活する人々と、温泉利用客の思いが反映される対策がとられることを願っている。

「東京と青森」第595号 東京青森県人会 2017年11月発行より引用。

中園先生より掲載の許可をいただいております。