Presented by Yumegurance

明治40年頃の写真「高台から肘折温泉街を見下ろして」
ほていや商店より提供いただきました。

肘折温泉の歴史は、一方で鉱山の歴史でもある。 大蔵鉱山は大蔵村の南南西、肘折温泉の西側山中にある戸沢村との町境にある志賀山(721)の南麓にあり、大蔵鉱山は、1764年から1780年代(明和年間)新庄藩主戸沢氏が、金鉱採掘の目的で初めて事業をおこしたのが始まりと言われている。

大正2年、この鉱山と古口駅間に延長8里半(26km)の単線式索道を架けて貨物の運搬に利用している記録があり、この時の在山従業員は、3,000人を数えたと言われる。索道建設に合わせ、柳渕に発電所が設けられ、索道の動力になったほか、肘折に至る道に街灯が灯った。肘折に街灯が灯る5年も前だった。

大蔵鉱山にあった精錬場と精錬場の内部の様子。

索道は鉱石を運搬するだけでなく、貨物などの運搬にも使用された。又、終点の古口には最上川河口の酒田から新鮮な魚介類だけでなく、北前船で運ばれてきた物資も豊富に輸送され、山深いカルデラの肘折には様々な物資が豊富に輸送されていた。

鉱山街の近くにあった肘折温泉も鉱夫たちの格好の休養地になったそのため、温泉街にはバーや一杯飲み屋、料亭など遊興に事欠かない施設があり、大いに賑わったという。 日露戦争前後から大正の初めにかけて、最盛期を迎えた大蔵鉱山は、近くにあった永松鉱山と合わせ、山形県内の採掘量のトップを走り、全国有数の大銅山であったと言われていたが、欧州大戦は終了によって銅価の下落により鉱業界に不況が襲った。

その後、昭和27年に東邦亜鉛が買収し、以後東邦亜鉛株式会社大蔵鉱業所として発足し、送電線設備するなどの経緯を経て操業を続けていたが、産出物の枯渇とコスト高で、昭和34年に閉山した。そして肘折は静かな山間集落となっていった。

by ゴロー